
はじめに
これは誰かの役に立つ記事ではありません。
あの日の自分を忘れないために残す、私だけの記録です。
文章の中には、当時の自分が感じていたことや、情けないと思う自分も、そのまま書いています。
自分に向き合うためには、胸の奥深くに燻るどうしようもない思いを、一度言葉にする必要があると感じました。
もし、たまたま同じような立場の人がこの記録を読むことがあれば、それぞれの思いと重ねながら読んでもらえたら、そ
れだけで十分です。

あの日、深夜2時。 病院から「急変・・・」の電話。
父はひとりで逝ってしまいました。 まだ暗い部屋を私は電気もつけずに歩き回って家族に声をかけ、出掛ける支度を始め
た。
眉毛だけ描いてマスクして、夜の湿った匂いを感じながら駐車場に急ぐ。
今から何が始まるの?
深夜の病院は静かでいつものそれとは違っていた。
暗い空と虫の声を聴きながら車を停めて父がよく外を眺めていた窓に一瞬目をやり、警備員に名を告げ病室に急いだ。
知った看護師さんの顔、こちらですと言われて中に入ると、父が眠っていた。
真っ直ぐと目を瞑っていた。私に気付かない。
静かに看護師さんが話を始めて「夕ご飯も普段通り、お話もいつもと変わらなかった。
でも見回りの時にはもう息はなかったんです」と・・・・。
ここ最近車椅子やベッドからたびたび落ちて、その度看護師さんから丁寧な報告をもらうことが多くなっていた。
1週間前には車椅子用の落下防止ベルトも買ったばかりだった。
べッドに4点柵を取り付け、拘束の同意書も提出して・・・。
リハビリパンツに使用するパッドやおしりふき、エプロン、リハビリ用の靴・・・
病院にせっせと持ち込んでからまだ間も立っていない。
どれもさほど使うこともなく、父はそれらを必要としないどこか遠くのところへ逝ってしまいました。
パパは寝ているようだ・・・。「死んだ?」 触れることはできない。
私は洗面台にあった紙タオルを四つ折りにしてメモがわりにし、いくつか検索してお葬式屋さんを決めた。
時々目をやるけどパパはやっぱり動かない。
あと、今にふさわしくないであろう言葉が
「パパ、凄い。死ぬなんて」。
白々と夜が明け始めた頃に私は部屋を後にした。
父が退院するために看護師さんが支度をするためだ。
父がよく居たテレビが置いてあるこの共有スペースの窓から、外をしばらく見ていた。
「こんな小さなところにずっとひとりで居たんだね」
「家に帰りたかったね」
「ママとお正月過ごしたかったね・・・」
ふとそんなことを口走っていたような
あの頃の私は、
「危ないから」「コロナだから」と言いながら、本当は厄介なことに巻き込まれたくなかっただけなんじゃないか・・・
何度も自分を責めた。
父の自由を奪い、病院に閉じ込めている。
面倒見の良い娘を演じていただけだったんじゃないか、と。
そんなことをぼんやり考えていたら、黒い服を着た男性がそっと小声で何かを言ってきたが、
私は何を言っているのかわからないままなんとなく頭を下げた。
父の病室に入ってその人は看護師さんと一緒に父の掛け布団をとって、乾いた枝のような腕を胸に組んで置いたりして何か
を話している。
でも動作は止まらない。
寝台へと乗せられて、最後にそっと白い布を顔にかけた。
一緒にエレベーターで降りて、いつも入ってくる玄関を横目に、通ったことのない廊下を抜けて見えたのは黒い寝台車。
表玄関と反対のドアから退院することになるなんて。
あっという間に車に吸い込まれ、滑る様に走り出した車を見た時どうしたのかしゃがみたくなった。
肩を抱いてくれる看護師さん、走ってやってきた婦長さん達の言葉が優しすぎて、何かがこみ上げ胸が詰まる。
椅子に座り深呼吸をして「大丈夫です、とにかく帰ってごはん食べます・・・」看護師さんにそう言ったんだっけ。
死によって父と引き離された事実を実感として感じたあの時、あの瞬間、「
え〜っ俺死んだのか・・・」
そんな声がしたような気がした。
病室にあった荷物は信じられない程少なくて、
3年近く転々とした入院生活が慎ましいものだったことにまた胸が痛み父のことを思い出していた。
介護度の認定のために面会に来る人や意味について説明した時にこにこして笑っていたっけ・・・。
晩年は多額の借金・女性問題で母を悩まし、長く続く母のうつ病は治るどころか重くなっていった。
父は父なりに母を長く支えてきたが、しばらくすると父は自覚のない脳梗塞により
認知症が進んでしまい車の事故を起こす。
父の認知症がお酒と連動して両親だけでの二人暮らしはいよいよ厳しくなっていった。
ソーシャルワーカーや地域包括支援センターと共に対応をしてきたけど、救急車にお世話になったことも。
実家はショウジョウバエが異常に多く、ゴキブリ・ごみ屋敷となり荒れていく。
どうしたら良いのか本当にこの頃辛かったのが忘れられない。
自分のメンタルを守るのに精一杯で・・・。
両親が老いるということは子供にとって、わかっていても結構参るんですよね、思った以上に。
この頃自分のことも大嫌いだった。
父は原因不明の発熱により入院がはじまるが、お金の執着と昼夜問わず度を超えた数の電話
テレビを分解したり隣の人のお金を盗んだりと院内での問題行動の連続で私はますます父への嫌悪は増して
関わりは限りなく義務的で最小限となっていった。
おじいちゃんが死んだことを子供達に話した。
ホームにいる母にも電話で話したが、気丈にふるまっいているのか
それとも本当に心が離れていてどうでも良いのか・・・
「もう歳だから」と繰り返す母は父の話から違う話題へと話を変えた。
電話を切ったあと一人考えて悲しむのだろうか?
精神に影響が出ないといいなぁと思った。
早速午後には葬儀の打ち合わせと契約を一通りして概ね葬儀のかたちが決まった。
父は7人兄弟の次男だが親戚の連絡先も不明で、わかるところでも北海道と遠いために
参列者は私と二人の子供達の三人だけ。
母は参列する気はない。
家族だけで行い火葬葬として別れた元夫にも葬儀の連絡はせず、私と子供達だけで送りました。
私たちの前に現れた父は眼鏡を取った顔で、髪も髭もきちんと綺麗に整い
清潔感があり穏やかな表情で眠っているみたい
高尚な雰囲気さえ纏っているように見えた。
火葬式のお別れは炉のひとつ前の部屋でわずか3分。
どこかの部屋では数人の僧侶のお経が聞こえた
その短い時間で副葬品の手紙やノート、お出掛け用の上着とネクタイ。
食べたいとメモにあった梨、大好きだったタバコとお酒におつまみ。
棺に入れる花は、母の唯一の希望で追加したお花を3人で手向け、棺は華やかになった。
「あなたの子供に生まれてきて良かった」
なんでこんな言葉がスッと出てきたのか今でもわからない。
3人で待合室で携帯をいじりながら時間が過ぎ、父は人の骨になっていた。
人工関節の金属を残して小さい箱に入っていた。
そして子供が作った遺影と共に父を連れて私たちは帰路についた。
父は本当に久しぶりに我が家にやって来た。
私には兄弟はいないし、離婚もしているので頼れる大人は誰一人もいません。
両親は親戚付き合いも疎遠となっていて、なんとかわかる人も北海道と遠方で、躊躇してしまい
まだ誰にも知らせることができていない。
埋葬も決まらずにいますが私にできることを一つずつこれでもやってきたよ。
間違いだらけだと思う
罰当たりかもしれないし世間知らずだと思うけれど
開き直っているわけでもなく。
やるのは私だけ、できることをひとつずつ片付ければいい。
そんなことを思いながら公的な手続きもたくさんあるし年金や介護保険、喪中お知らせ・・・
まだまだあるけれど、はじめてのお葬式
比べることもできないからこの葬儀が一体どうだったのかはわからない。
おわりに
相変わらずまだ涙は出ない。
胸の奥、水面下を漂うような感情がいつかひっそりとわたしの傍らに現れた時のために、この時の自分を文章にして残し
ました。
ママのことは私に任せて・・・
私は父と、今生の別れをしました。




セキセイインコの記事からこのNoteにつながりました。(我が家のピーが同様の症状になりまして、、参考にさせていただきました!)
つい1ヶ月前に父を亡くし、その時の情景とかぶってとても胸が苦しくなりました。
同時にこずさんのストレートな感情がストンと素直に自分の中に染み入っていくことに気づき、ついついコメントを書いてしまいました。
子なし既婚・乳がんステージ4告知され、昨年、今まで20数年歩んできたキャリアをついついバサッと切った私、今、色々と感じることや溢れるばかりに思うことが多々あるのですが、私もこずさんのように素直に気持ちが表現できる文章が書けるといいな、と思いました。
文章がまとまらなくてすみません、、、どうか読み飛ばしてください 笑。
ありがとうございました。
コメントをいただきありがとうございます。
父が亡くなるまでの数年に本当に様々なことがありまして、その度にいつも試されているなぁと思い、その度たくさんの方に助けられて乗り越えてきました。
ゆうちゃんさんはたくさん考えていろんなことを決断されて、相当の覚悟で勇気のいることだったのだろうと文面から伝わってきました。応援しています!
ゆうちゃんさんとピーちゃんの未来が今まで以上に明るく幸せに満ちたものでありますように。また、お身体どうかお大事になさってくださいね。
ありがとうございました。