あの日、深夜2時。 病院から「急変・・・」の電話。
父はひとりで逝ってしまいました。
まだ暗い部屋を私は電気もつけずに歩き回り家族に声をかけ、出掛ける支度を始めた。 眉毛だけ描いてマスクして、夜の湿った匂いを感じながら駐車場に急ぐ。
今から何が始まるのか・・・?
深夜の病院は静かでいつものそれとは違っていた。 暗い空と虫の声を聴きながら父がよく外を見ていた窓に一瞬目をやり、警備員に名を告げ病室に急いだ。
知った看護師さんの顔、こちらですと言われて中に入ると、父が眠っていた。
真っ直ぐと目を瞑っていた。私に気付かない。
静かに看護師さんが話を始めて「夕ご飯も普段通り、お話もいつもと変わらなかった。でも見回りの時にはもう息はなかったんです」と・・・・。
ここ最近車椅子やベッドからたびたび落ちて、その度看護師さんから丁寧な報告をもらうことが多くなっていた。 1週間前には車椅子用の落下防止ベルトも買った。 べッドに4点柵を使うために、拘束の同意書も提出したばかりだった。 リハビリパンツに使用するパッドやおしりふき、エプロン、リハビリ用の靴・・・病院にせっせと持ち込んでからまだ間もない。
どれもさほど使うこともなく、父はそれらを必要としないところへ行ってしまった。
パパは寝ているようだ・・・。「本当に死んだ?」 触れることはできない。
私は洗面台にあった紙タオルを四つ折りにしてメモにして、お葬式屋さんを決めて。 白々と夜が明け始めた頃に私は部屋を後にした。 看護師さんが父が退院するための最後の支度をするためだ。
父がいつもいたこのテレビが置いてある共有スペースの窓から外をしばらく見ていた。「こんな小さなところにずっとひとりで居たんだね」「家に帰りたかったね」「お母さんとお正月過ごしたかったね・・・」ふとそんなことを口走っていたような。
私は認知症の父を「危ないから」「コロナだから」という名目で制限していた。 でも本当は厄介なことに巻き込まれたくないというのが本心だったんじゃないかと思う。 自由を奪って病院に閉じ込めている。 表向きは面倒見の良い娘のふりをしたていただけだ。 そんなことを考えていたら、喪服を着た男性がそっと小声で何かを言ってきたが私はわからないままなんとなく頭を下げた。 父の病室に入ってその人は看護師と一緒に父の掛け布団をとって、乾いた枝のような腕を胸に組んで置く。 何かを話している。でも動作は止まらない。寝台へと乗せられて、最後にそっと白い布を顔にかけた。
一緒にエレベーターを降りていつも入ってくる玄関を横目に、通ったことのない廊下を抜けて見えたのは黒い霊柩車。 こっち側のドアから退院することになるなんて。 あっという間に車に吸い込まれ、滑る様に走り出した車を見た時どうしたのかしゃがみたくなった。 肩を抱いてくれる看護師、走ってやってきた婦長さん達の言葉が優しすぎて、涙がこみ上げ胸が詰まる。 椅子に座り深呼吸をして「大丈夫です、とにかく帰ってごはん食べます・・・」看護師さんにそう言ったんだっけ。
死によって父と引き離された事実を実感として感じた瞬間のあの時、「え〜っ俺死んだのか・・・」そんな声がしたような気がした。
病室にあった荷物は信じられない程少なくて、3年近く転々とした入院生活が慎ましいものだったことにまた胸が痛み父のことをまた思い出していた。
晩年は多額の借金・女性問題で母を悩まし、長く続く母のうつ病は治るどころか重くなっていった。 父は父なりに母を長く支えてきたが、しばらくすると父は自覚のない脳梗塞により認知症が進んでしまい車の事故を起こす。父の認知症がお酒と連動して両親だけでの二人暮らしはいよいよ厳しくなっていった。 ソーシャルワーカーや地域包括支援センターと共に対応をしてきたけど、実家はショウジョウバエが異常に多く、ゴキブリ・ごみ屋敷となり荒れていく。どうしたら良いのか本当にこの頃辛かったのを忘れない。自分のメンタルを守るのに精一杯。 両親が老いるということは当たり前だけど結構参るんですよね。思った異常に。自分のことも大嫌いだった。
父は原因不明の発熱により入院がはじまるが、お金の執着と時間に関わらずかかってくる度を超えた数の迷惑電話、院内での問題行動の連続で私はますます父への嫌悪は増し、関わりは限りなく義務的で最小限となっていった。
おじいちゃんが死んだことを子供達に話した。
ホームにいる母にも電話で今日のことを話したが、気丈にふるまっいているのか、それとも本当に心が離れていてどうでも良いのか・・・「もう歳だから」と繰り返す母は父の話から違う話題へと話を変えた。 電話を切ったあと一人考えて悲しむのだろうか? 精神に影響が出ないといいなぁと思った。
早速午後には葬儀の契約と打ち合わせを一通りして概ね葬儀のかたちが決まったが、父は7人兄弟の次男だが親戚の連絡先も不明で、わかるところでも北海道と遠いために参列者は私と二人の子供達の三人だけ。 母は参列する気はない。 家族だけで行い火葬葬として別れた夫にも葬儀の連絡はせず、私と子供達だけで送りました。
私たちの前に現れた父は眼鏡をとってきちんと髪も髭も綺麗に整い清潔感があり眠っているみたい。 そして静かで穏やかな表情は高尚な雰囲気さえ纏った表情。
火葬式のお別れは炉のひとつ前の部屋でわずか3分。 その時間で副葬品の手紙やノート、お出掛け用の上着とネクタイ。 食べたいとメモにあった梨、大好きだったタバコとお酒、おつまみ。 棺に入れる花は母からの唯一の希望で追加して3人で手向け棺は華やかになった。
「あなたの子供に生まれてきて良かった」 なんでこんな言葉がスッと出てきたのか今でもわからない。 3人で待合室で携帯をいじりながら時間が過ぎ、次に会った時は人の骨になっていた。人工関節の金属を残して小さい箱に入ってしまいました。 そして子供が作った遺影と共に父を連れて私たちは帰路についた。
父は本当に久しぶりに我が家にやって来た。
私には兄弟はいないし、離婚もしているので頼れる大人は誰一人もいません。 両親は親戚付き合いも疎遠となっていてなんとかわかる人も北海道と遠方で躊躇してしまいまだ誰にも知らせることができていない。 埋葬も決まらずにいますが私にできることを一つずつこれでもやってきたよ。 間違いだらけだと思う、罰当たりかもしれないし世間知らずだと思うけれど開き直っているわけでもありません。 やれるのは私だけなんだから、できることをひとつずつ私らしく。
公的な手続きもたくさんあるし年金や介護保険、喪中お知らせ・・・まだまだあるけれど、はじめてのお葬式は何かと比べることもできないから葬儀がどうだったのかはわからない。
相変わらずまだ涙は出ない。
胸の奥、水面下を漂うような感情がいつかひっそりとわたしの傍らに現れた時のために、この時の自分を文章にして残しました。
ママのことは私に任せて・・・私は「父と今生の別れをした」
セキセイインコの記事からこのNoteにつながりました。(我が家のピーが同様の症状になりまして、、参考にさせていただきました!)
つい1ヶ月前に父を亡くし、その時の情景とかぶってとても胸が苦しくなりました。
同時にこずさんのストレートな感情がストンと素直に自分の中に染み入っていくことに気づき、ついついコメントを書いてしまいました。
子なし既婚・乳がんステージ4告知され、昨年、今まで20数年歩んできたキャリアをついついバサッと切った私、今、色々と感じることや溢れるばかりに思うことが多々あるのですが、私もこずさんのように素直に気持ちが表現できる文章が書けるといいな、と思いました。
文章がまとまらなくてすみません、、、どうか読み飛ばしてください 笑。
ありがとうございました。
コメントをいただけるなんて驚きました。ありがとうございます(泣喜)
父が亡くなるまでの数年に本当に様々なことがありまして、その度にいつも試されているなぁと思うようにしてきました。
時間って止まらないんですよね。悪いこともいい事も全部ひっくるめて飛んでいって。だからこそ今を幸せに生きなきゃ・・・と思えるようになりました。
その後ピーちゃんの具合はいかがですか? 元気でかわいい声を聞ける毎日はこちらも幸せな気持ちになります。
ゆうちゃんさんもたくさん考えていろんなことを決断されて、相当の覚悟で勇気のいることだったと文面から伝わってきます。
ということは、ゆうちゃんさんの選択は間違いではなかったという未来が今始まったばかり・・・ということですね!
私はちゃんとブログを更新できるように頑張りますので機会がありましたらまた是非立ち寄ってみてくださいね。ありがとうございました。